読みもの
2023/06/26 20:00
和菓子の起源:甘くない菓子の誕生(奈良時代)
和菓子という呼び名は、実は洋菓子に対する呼称であり、比較的新しい言葉です。その起源は大正時代末期にさかのぼります。一方、「菓子」という言葉は非常に古くから存在していました。最初は「果子」と書かれ、果物や植物の実を指す言葉でした。つまり、当時の菓子は現在の意味でいうところの果物のことを指していたのです。実際、現代でも、食事後のフルーツを「水菓子」と呼ぶことがあるかと思います。
また、菓子は元々、食事と食事の間の小腹を満たす軽食としても考えられていました。甘くなくても構わないのです。この認識は江戸時代まで続いていました。
奈良時代には、朝廷には調理を担当する部署があり、「主菓餅」と呼ばれる場所が存在していました。ここでは、果物や雑餅などが加工されていました。雑餅とは大豆餅や小豆餅などであり、甘い菓子ではありませんでした。奈良時代においては、菓子は甘いものだけではなかったのです。
一方、甘い菓子も存在していました。平安時代に編纂された日本最古の法令集である『延喜式』には、各地の名産菓子として、ヤマモモや栗、梨、アケビなどの果物とともに、「甘葛煎」という名前が記載されています。これは甘葛の汁を煎じて煮詰めた、当時の貴重な甘味料でした。贅沢品としての和菓子の確立(平安時代)
平安時代には、中国から仏教文化とともに7〜8世紀に伝わった菓子が存在しました。当時、遣唐使が持ち帰った中国からの菓子は、「唐菓子」と呼ばれ、木菓子とは区別されていました。
唐菓子の多くは、米粉や小麦粉を使っており、揚げたり炒めたり茹でたりする方法で調理されました。これらの菓子は主に宮中で使用され、一般庶民の口には入らない贅沢な存在でした。
このように、古代の唐菓子は日本において特別な存在であり、その製法や材料には独自の特徴がありました。唐菓子は文化交流の一環としても重要な役割を果たし、日本の菓子文化の発展に寄与してきたのです。
菓子=間食の時代(鎌倉時代)
鎌倉時代には中国の点心の文化が伝来し、日本で広まりました。
点心は禅宗の喫茶の一環として発展し、軽食の一種を指しました。点心には、トロみのあるスープや麺類、餅などのバリエーションがありましたが、餃子やシュウマイのような具材は当時は存在しませんでした。
また、饅頭と言っても、現代の菓子とは異なり、食事用の一品でした。野菜を詰めた菜饅頭や、砂糖を入れた砂糖饅頭などがあり、味噌と一緒に食べられました。饅頭が菓子として認識されるようになったのは室町時代末期から江戸時代初期で、この時期に小豆の餡に近い具材を入れた饅頭が作られるようになりました。
南蛮菓子の伝来(室町時代)
室町時代には種子島にポルトガル人が漂着したことをきっかけに、西欧、特にポルトガルやスペインの南蛮文化が日本に広まっていきました。
南蛮菓子には現代でも和菓子として愛されているカステラや金平糖などがあります。これらは代表的な南蛮菓子の一部です。
南蛮菓子は、日本を訪れた宣教師や貿易商たちによってもたらされました。宣教師たちはキリスト教の布教を目的としており、そのために権力者からの許可や援助を求める必要がありました。この際には、手土産として南蛮の珍しい物品を贈ることが欠かせませんでした。南蛮菓子もその中の一つでした。菓子の民主化が進む(江戸時代)
新たな日本文化としての和菓子(現代)
明治になると洋菓子の文化が多数日本に伝来しました。冒頭でも書いたように、洋菓子が入ってきて初めて和菓子という概念が生み出されました。
洋菓子の対となる概念としての和菓子ですが、互いに競合することなく、和菓子は洋菓子のいい部分を吸収して現代の多様な和菓子文化を築き上げてきました。
そして、これからも和菓子は伝統を大切にしながら革新を続け、日本文化として輝き続けることでしょう。
私たち益民山月庵も、昔から受け継がれてきた伝統に想いを馳せ、革新を続けることで新たな文化をつくりあげて参ります。